押井ワールドのすゝめ! ~トーキング・ヘッド(1992)~
こんにちは、面堂敬太郎でございます。
初回の自己紹介に引き続き、早速作品を紹介したいと思います!
栄えある第一回紹介作品は・・・
押井守 監督作品 「トーキング・ヘッド」(1992)
でございます。
実のところ、うる星ファンの僕としては同監督作品の「ビューティフルドリーマー」を紹介したかったのですが、ところがどっこい、今朝、この作品を視聴しちゃいまして、今や僕のおつむは押井守による洗脳から脱することもままならない状況なのであります。
では、本題に移るとして、
まず、押井守という奇才について、あなたはご存知だろうか。
オタクであれ、誰であれ、一度は耳にしたことがあるだろう「攻殻機動隊」の監督であり、その他「うる星やつら」(主に演出)、「機動警察パトレイバー」など幾多の作品を代表作とし、その不世出な才能と卓越した演出力は幾ばくの月日を経た現代においても我々観衆の眼を虜にしている。
今回、紹介する作品には熱烈な押井ファンでないかぎり相当な根気を要すると思われるので、ブログを読む際は注意されたい。また、僕自身もそうであったが、正直言ってこの作品は押井ワールド、そしてそこに付随し、世界観形成の一翼を担う諸知識の理解を要するため、押井ワールドに馴れていない方には非常に難解である。
ということで馴れていない方には理解を促すための潤滑油として「パトレイバー」や「攻殻機動隊」等比較的マイルドで世間的にも名作と謳われている作品を予め鑑賞することを勧めたい。
そして今回の紹介作品はこの押井ワールドと関連づけて、紹介していきたい。
問ひて曰く、押井ワールドとは何ぞや?
答へて曰く、危険なカルピスの原液なり
彼の世界観を端的に言い表すと、こうなる。
よく彼に関する論評で”アレンジやオマージュの天才”とあるのを(うろ覚えだが)目にしたことがあるが、確かにこれは僕としても十分理解できることであるし、押井ファンにとっても共通理解であるように思う。しかし、押井ワールドは上で示した通り、カルピスの原液なのである。
”おいおい…”と押井ファン歴このかた三十年の諸先輩方からツッコミが来そうだが、順を追って説明しよう。
実は押井ワールドを形成している諸事物の中には”パロディ”も少なくないのだ。ここがツッコミどころの一つである。しかしながら、上記の”アレンジやオマージュの天才”はまた違う話である。というのは「攻殻機動隊」も「パトレイバー」も「うる星やつら」も全て原作原案は押井自身と異なる人物なのである。つまり、押井はそれら原作を自分流に調理し、ヒットさせていることになる。そこが”アレンジやオマージュの天才”と表現されうる所以なのだろう。
とどのつまり、押井守というカルピスの原液は他者の原作原案によって見事に中和され、少しコクの残るさっぱりしたあの甘いカルピスへと変貌するのだ。
では、原液に含まれる”パロディ”とは何であろう。これは我々オタクにも似たようなものが存在する。愛と尊敬の念を込めて著作物に捧げられる行為ー二次創作ーである。彼の映画には鈴木清順や寺山修司のような邦画を代表する映画人の特徴的技法がいくつか散見される。
鈴木清順は清順美学と呼ばれる幽遠的かつ耽美的な作風で知られる監督であり、押井作品の中ではその大胆なパロディがよく見られる。また、寺山修司は日本サブカルチャーの確立者と言っても過言ではなく、その退廃的、土着的な世界観が際立つ日本屈指の文芸家である。押井は彼らをはじめ、影響を受けた幾多あまたの芸術人の世界観を共有し、自分の世界の中に取り込み、確固たるものとして押井流哲学で締めくくっている。
彼のいわゆる原液は少なくともこのような物質であると思える。そしてこの原液を味わうにはあまりに濃く、使い方を間違えてしまえば、危険になってしまう。
その危険な状態というのがこの映画だ。
「トーキングヘッド」
上のポスターからしてアニメ作品と思う方がいるだろうが、これは紛れもない実写作品。アニメはあるものの劇中アニメという扱い。
しかし、そのアニメが凄い!
のマクロスペア、そして原画には金田伊功も参加しており、ここだけでも見応えのある作品だ。
さて、実写パートだが、主演は押井映画お馴染みの千葉繁。
ちなみに助演ではマダオや碇ゲンドウの声の主として名高い若かりし頃の立木文彦も劇中で大いに活躍している。
千葉繁扮する映画監督が、監督失踪により映画製作の進行の難航した制作スタジオに代理の新監督として任に就く。しかし、当日から制作メンバーの不審死が相次ぎ…という血生臭い内容となっており、内容からしてメタフィクション的要素を大々的に感じさせる。また、雰囲気は一貫して重いものの、やや喜劇のような空気感がずっと漂っているのである。押井作品経験者なら、この感覚に共感できる方も少なくないだろう。まるで映画を一つの構図として捉えている。
一つの構図…これを一つのヒントとして受け取ってこの映画を観るのもありだろう。実際、この映画の押井の演出力には驚かされる。先述した鈴木清順や寺山修司の作品を知っている方ならこの映画を見てニヤリとくるだろう。
映画が一直線上のある一定の時間軸としてのベクトルしかないとしたら、押井映画は平面上にもう一つ軸が追加され…いや、もはや立体なのかもしれない。
はっきり言って純粋に単軸的な映画を楽しむ観客にとってみれば、この映画は危険な劇薬なのだろう。
もし、この映画で押井ワールドの洗礼を受ける方がいれば、とにかく真正面から根気を持ってぶつかることを勧める。そうでもしなければ、この映画はただ流れる不鮮明な映像にしか見えないだろう。