面堂敬太郎の活動録

徒然なるままに、趣味について書き綴っております

至高の悲劇 ~伝説巨神イデオン劇場版 THE IDEON 発動編(1982)~

こんにちは、面堂敬太郎でございます。

早速ですが昨日劇場版イデオンを鑑賞しました。はっきり言って、憔悴しました。そして一夜明けてブログを書いている今(執筆開始日は28日) も、微弱ながらその憔悴からくる半狂にも似た倦怠感が体の至る所に留まっている気がしてならないということ。そのため今回は紹介ではなく、イデオン視聴済みの方を対象とした感想及び考察文になってしまうということ。それに付随してネタバレは無論のことであるということ。また、工作的な自由さが取り柄であるブログが今回は単純な活字ばかりのお通夜のような仕様になっていること。今回はそれらを踏まえた上で読んでもらえると幸いです。

 

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富野由悠季 監督作品 「伝説巨神イデオン劇場版 THE IDEON 発動編」(1982)

 

まず、この映画を鑑賞して身に沁みた強烈な感覚が今もまだ鮮明に感じられた。それは僕や読者の方々も子供時代に抱いたであろうあの畏怖である。あの畏怖というのは子供時代、ホラー映画やサメ映画を見た後、得体の知れない恐怖に襲われ、その無垢な心はフィクションをあたかも現実であるかのように考え、ただただ恐怖の奈落に堕するままに一夜を過ごしたあれである。

そして僕は小学生以来記憶の彼方に置いてきたその畏怖を齢二十を前にして更新した。しかしながらこの畏怖は子供の頃とは違い、一時的な事象に過ぎないのだ。思春期を過ぎた人間というのはまるでアルミのように熱を加えてもすぐに冷めやすいのだ。そして感性に乏しい現代人であるという要素も冷却の原因になりうるのだ。僕はこの事を潜在的に感じるや否やすぐブログにしたためようと思ったが、夜も遅いのであくる日にしたためることにした。そして今日、嫌な予感は僕の予想より早く体現された。映画から受け取った感覚の断片が徐々に剥がれ落ちていくのを実感したのである。なのでこの貴重な畏怖の体験を文面だけでも残存せしめるべく早急にしたためよう。そして読者の方々もイデオンの劇場版までの作品を視聴した直後に本ブログを読んでみるとこの体験を共有できるように思う。

TV版の視聴終了後、劇場版の視聴を後回しにしていた僕は昨日やっと視聴する機会を見つけた。amazonのprime videoを開く。それはほんの軽い気持ちとやり残した仕事を遂行しようとする義務感であった。視聴ボタンをタップする。映像が始まる。どこか見覚えのある映像が流れた。遠い記憶の中から情報を手繰り寄せる。そうだ、画面に映るこの二人はコスモとキッチンだ。TV版の記憶が昨日のように甦る。そしてそのシーンはキッチンの死の場面であった。しかし、このシーンで平然としていた僕の心情は一変する。キッチンはTV版と違い、爆発に巻き込まれて死ぬのだが、それを見て唖然とするコスモのヘルメットに反射して映るのは遠くで血しぶきの放物線を描きながら空中を飛ぶキッチンの首なのである。僕はこれが紛れもない富野作品であることを忘れ、油断していたのだ。間髪をいれず、すぎやまこういちの劇伴の流れるオープニングが始まる。眼が熱くなった。普段は序盤の段階でそうならないのだが、今回のこの作品は何かがおかしかった。このすぎやまこういちの劇伴は本来のドラクエのメインテーマのようなワーグナー的勇壮と絢爛に彩られた曲ではなく、彼の音楽にはこれまでにないようなモルダウ的悲哀を引き出す曲であった。かくして荘厳な序幕は始まった。

僕はすっかり底無し沼に浸かったかのような感覚で視聴を進めた。この感覚はエヴァンゲリオンの旧劇場版を見た時と同じ感覚である。そして物語はTV版最終回の部分に差し掛かり、打ち切られたTV版の補完部分を展開した。ソロ・シップとバッフ・クランの死闘は一見いたちごっこのように見えたが、戦闘の規模を格段に増長せしめた。遂にバッフ・クランは白兵戦を遂行。ここで恋人ギジェを失い堕落と狂乱の底へ身を投じたシェリルはその生の幕を引いた。そして純粋無垢な赤ん坊がイデの力を増幅させる契機になるということをソロ・シップのメンバーは認識し、ベスとカララの間にできた子はメシアと名付けられ、祝福される。

そして、物語は波乱と破滅の終幕へと向かう。バッフ・クラン側では最終兵器を準備し、ソロ・シップとの決戦に臨んでいた。そして、カララの姉であるハルルは二人の部下を伴ってソロ・シップに侵入、ここでロッタとカララは射殺される。しかし、カララのお腹の中にいるメシアはまだ生きているのだ。一方バッフ・クランではハルルによる父ドバ総司令への告解がなされていた。女としての幸せを手に入れた妹に対してそうでない自分への劣等感から引き起こされた殺人はサムライとしての本分を重んじる父の逆鱗に触れた。その後、両軍の攻防の中でハルルは死んだ。この時点で僕の眼は得体の知れない何かに覆われていた。人間模様。それも善悪のはっきり付け難い事物からなされる人間模様だ。僕はこの時、この作品が単なるロボットアニメではなく、一大悲劇のスペースオペラであることに気付いた。物語は遂に絶望の終戦へと向かっていく。バッフ・クランの白兵戦の猛威はソロ・シップのメインブリッジにまで迫っていた。ここでメインキャラクターたちは女・子供かまわず戦闘の中で無残に死んでいく。僕にとってカーシャの死は特に胸に応えた。そして軍人として最期までその職務を遂行したべスには心打たれた。まさに絶望なのである。このメインブリッジの死闘は妙に現実味があって序盤に述べた畏怖を特に感じさせる場面であった。そしてバッフ・クランの最終兵器ガンドロワによる攻撃がなされるとその直後にイデは発動され、両人類(それぞれの母星は流星によってすでに破壊された)は全滅したのである。

その後も物語は続くのだが、一旦ここで区切らせていただく。

ここまでを見て、富野作品の凄まじさを改めて知らされた気がする。ガンダムにおける黒富野とは比にならないほどの黒さである。あの最後のメインブリッジにおける死闘の妙な現実味は富野監督世代の感覚でしか引き出せないのだろうと思った。戦時中の生まれであり、我々には分からないが、空襲や戦後の混沌とした風景を見てきたであろう世代だからこそ生み出せるリアルな感覚である。それがアニメという映像表現を通して我々に畏怖という名の戦時中の感覚を仮想体験させてくれたのかもしれない。僕はあの時、まさに絶望の淵に立たされた感覚を味わったのである。

そして、物語は哲学的かつ神話的な境地に突入する。ここがこの物語の本質であり、全滅以前に双方の人類が迫りつつあったイデの核心が明らかになるところである。全滅した人類は宇宙に精神的具現として現れた。霊魂のようなものである。そこでは主人公コスモ含め、登場人物みな幸福の権化のような雰囲気で登場するのである。そして人々は愛する人と共にカララの子メシアの先導によって因果地平へと旅立つ。そして物語は終了する。この場面でもすぎやまこういちの讃美歌のようなこれまたある意味彼らしくない劇伴が凄く効果的に作用している。

結局のところイデは人類の信奉する神の具現化した姿で、人間の業を解決する最終手段として人類の全滅を選んだわけだ。キリスト教におけるヨハネの黙示録にあるハルマゲドンの一部始終と構図は部分的に似ているが、内容的には仏教の輪廻転生が主題に近いのであろう。人類は因果地平へ行き、転生して一からやり直すのだろう。

また、最後のシーンでは一つ感慨深いシーンがあった。因果地平へ人々が向かうシーンで実写の色彩加工のなされた打ち上げる波濤の映像がいくつか登場しているのである。これはキューブリックの「2001年宇宙の旅」のラストスパートに出てくる数シーンと非常に似ているのである。その映画はざっくり言えばいち宇宙飛行士が宇宙で遭難し人類を超越した存在となって太陽系に戻ってくるといういわば人類証明のような物語で、この映画におけるキューブリック流人類証明をもしかしたら富野監督は輪廻転生の方式で富野流人類証明として作り直したのではなかろうかと推量してしまうほどのインパクトであった。

ただ、僕にとってこのイデオン劇場版は人類の歴史を股に掛けた一大悲劇なのである。映画全編にわたって散りばめられたグロテスク表現は現代人に畏怖の念を抱かせ、人類の愚かさを骨の髄にまで沁みこませたのである。そしてこの後世に受け継がれるべき大作を作り上げた富野由悠季もとい富野喜幸という人間にこの小童はただ感服するばかりなのである。

 

第1話 復活のイデオン

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伝説巨神イデオン 発動篇

伝説巨神イデオン 発動篇

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