面堂敬太郎の活動録

徒然なるままに、趣味について書き綴っております

新生高等遊民 三十年記 第一巻 1

第一巻

序文

 かつてサブカルチャーとして揶揄されてきたオタク文化は今や日本が世界に誇るCOOL JAPANへと大変革を遂げた。オタク文化という名はもはや形骸となし、マンガ、アニメーションなるものもかつて映画がそうなったように娯楽から知的或いは芸術的財産として認知され始めている。とはいえ二〇二〇年現在、まだまだサブカルチャーという殻は厚く、情報手段が劇的に進歩した現代においてそれを実感するのは容易なことであるが、今がその殻を突き破るようなそう遠くはないであろう未来に至る過渡期の末期にあるのだとも切に感じ得てくる。本作は我々オタクの礎を築いてきた一九八〇年代初頭から二〇一〇年代前半の先人たちの奮闘記に大袈裟なフィクションを交えて描く長編小説として予定しております。ちなみにタイトルの新生高等遊民はオタクを意味した私なりの造語で、近代日本における急進的な文学発展に感化された文学青年らが定職にもつかず同人活動に明け暮れ、それらを夏目漱石高等遊民と呼称した事に由来しております。私自身が十代の小童なもんで、当時の描写を忠実に描けるかどうか不安な部分もあり、至らない点もあるとは思いますが、半分大河ドラマ、半分コメディとしてお楽しみいただければ幸いです。

二〇二〇年五月三一日 面堂敬太郎

 

第一章 未知との遭遇

一九八一年二月一日 早朝、外はまだまだ寒いどころかこれからますます寒くなるような気配であった。窓からは冬の眩しくもちくりと身体を突き刺すような冷たさを感じさせる光が差し込んでいた。偶然その光は部屋に貼られたスター・ウォーズのポスターのライトセーバ―が描かれている箇所に照っており、照らされてボワッと光ったライトセーバ―は映画さながらの臨場感をこの変哲もない野郎部屋に轟かせていた。ある意味薄気味悪いものである。昭雄は淡々と着替えて、大学への途に就く準備をしていた。朝食を慌てて口に運ぶと、あとは竜巻のように玄関まで身体を急かし運んだ。しかし、彼の一連の動作とは相反するように部屋は台風一過のような清々しさを見せつけた。それは彼の徹底した整理整頓に対する固執の結果であろう。

 外の気温は昭雄の予想を無残に切り捨てた。こんな冬将軍、何年振りなんだと煩わしく思う彼をよそに冬将軍はなんの躊躇もなく後ろからの猛追をかけてくる。

やっとのことで最寄駅に到着した。首の皮一枚はなんとかあの冬将軍の凶手から死守できたようだ。

さて、電車がホームに滑り込んでくる頃になると、それまで隊列を組んでいた老若男女は一斉に、ホームを覆う寒さから逃れるために我先にと雪崩のような突撃を披露した。それに対して微かな冷笑を示した昭雄もその一員であることに違いはなく、一瞬にして資本主義社会のストレスが乱舞する“あの”満員電車へ特攻した。彼の冷笑は客観的に見るとただの稚拙なアイロニーに過ぎなかった。

車内では多種多様な人間模様を垣間見ることができる。単語帳片手に朝晩が逆転したかのような顔つきをした受験生君、毎朝痴漢に勤しんでらっしゃる昭和ヒトケタの殿方、ディスコとウォークマンの違いも分からない音漏れ青年、野生動物の威嚇の如く互いのファッションを品定めせらるる姫君女子大生方、云々…

”なんと面白きこの現代なのだ!”

昭雄にとってこれと言って良いほどの趣味はなかった。世の中の何が面白いのか?いや面白いことと言えば毎日こうやって人間様の行動観察をしていることと、いつものさえない友人とくだらんバカ話をするだけであった。そして彼はいつもの如く大学に入っては行く先の毛頭見えない国際展望に、得体の知れない推論という名の香辛料をただまぶし続けただけの講義を聴くだけなのである。

 

麦田大学はいつも通り、盛況である。ほら、大隅初代学長の銅像も今日はそのしかめっ面で浮かない表情をめっきり変えては、変態の如くニタニタと笑っているではないか!

はっはっはっはー…

彼は一人でにやけていた。そして近くのアベックに嘲笑されている構図が出来上がる。”多分、男はテニサーだな。女はオリーブ*1でも読んでそうな子だ。でもホッペがリンゴみたい。出身は青森のどこかの奥地と見た!きっと。ウン!”

アーダコーダ考えているうちに昭雄は教室に到着し、禿茶瓶の現代国際社会学の講義が始まった。禿茶瓶こと本名・赤満労は、僕が専攻している国際社会学の教授でつま先から脳天まで真っ赤っかな教授である。八十年代初頭のいわゆる新人類世代特有の比較的ノンポリ層に位置する昭雄にとってはその押しつけがましい社会主義思想が癪だった。ただ学生運動バリバリ現役世代の若手講師たちからの人気は厚く、あと何年かは元気にやっていることだろう。

 

”だから、ソ連はあと10年で崩壊するんだよ!”

禿茶瓶に対するアレルギー作用からか、これは昭雄の口癖に近い台詞であった。

 

お昼時、昭雄はふらりと食堂によってみたが、どこからか俊彦が湧いて出てきた。長塚俊彦・商学部経営学科一年、昭雄の高校時代からの親友であり、悪友でもある。

「なんだお前か」

別にかわいい女の子を期待して出てきた言葉などではない。

「今日の禿茶瓶の講義、どうだったんだ?」

俊彦はまるで答えを知っているような体で言った。

「あいつの言ってることは全く意味が分からん。もう勝負はついているはずなのに」

「何がだ?」

「冷戦構造の行く末だよ!あと十年でソ連は崩壊する。これは自明の理だ」

昭雄はいつもの口癖を放った。

「やっぱりな。今日も一段と不機嫌そうだなと思ってたらな~」

当たりめえだろ、朝からこんな寒さに悩まされ、それに禿茶瓶の大演説ときたら僕の幸福フラストレーションは急上昇だよ!」

昭雄はそう言ってげっそりした顔を俊彦に近づけた。

「ちょっと君に紹介したい所があるんだよ」

俊彦は何か閃いたような面持ちだった。

「なんだ?ねずみ講ならゴメンだぜ」

昭雄は俊彦の言うことなどちっとも期待していなかった。

 

そして俊彦はいつものように教授陣の悪口を言いながら、昭雄を”紹介したい所”とやらに連れていくためにとことこキャンパス内を歩いた。やがて周りの景色はもはや昭雄の知らない景色となった。そこは普段彼でも立ち入ったことのない場所であった。

「ほら、ここだぜ」

古そうな二階建てコンクリ造りの建物である。建物に飲み込むようにして蔦が絡まり、入り口はひっそりとこちらを伺うかのような佇まいを見せている。

「なんかヤバそうだな。おいお前、何か政治結社にでも入ってるのか?」

「いいから、来いって」

訝しげな昭雄を俊彦は強引に引っ張って中に連れて入った。

入り口の玄関から一直線に伸びる暗い廊下は一定間隔を空けて並列するドアたちを両側に伴いながら半永久的に続くと思われ、いささか不気味だった。しかし、一つだけ何やら明るく光るドアが目立っていた。それは正面から見て右から三番目のドアである。俊彦はそれまで引っ張っていた昭雄の手を離し、夢遊病患者の如くそのドアの前に行き、そして開けた。

「ちわ~、どうも~」

彼はひょうきんな声でドアの向こう側にそう言うと、昭雄の方をちらりと見てからまたその向こう側にこう言った。

「今日は新入り、連れてきましたよ~」

そしてささっと昭雄の元へ戻り、先程と同じ様にして腕を引っ張り、あのドアの前に誘った。さて、あの中は天国か地獄か、その正体や如何に!中には四人の男と二人の女がいた。その光景は「未知との遭遇」の宇宙人対面シーンさながらであった。すると六人のうちの一人の男が交信を試みてきた。

「君が新入りなのかい?」

彼は巨漢であったが、どこか鋭い目つきをした男であった。

「い、いや、僕はその別に。ただ、この俊彦に連れて来られただけで、そんな気はさらさら。そもそもこれ一体何のサークル、というか集団なんですか?」

横でこう言われようが俊彦は平然としていた。すると巨漢の男は昭雄に向かって落ち着いた物腰でこう言った。

「いやぁ、ここはマンガ好きの集う漫画研究同好会で、通称漫研と呼ばれる学内非公式のサークルなんだよ。でも漫研とは名ばかりでね、実際はSFファン、アニメファン、特撮ファン、ミリタリーファンなどなど多種多様な好事家たちの吹き溜りの場でさ。ただ、今、部員が少なくて困ってるんだよね。そこでだ。君、体験入部でもいいから、うちのサークルに入ってみないかね?」

昭雄は勿論ためらった。しかし、この日の彼の気分が憂鬱だった事、そして未知なる物に少なからず関心を抱いてしまう人間の生理的衝動が引き金となった。また、特に趣味のない彼にとってこのサークルは気晴らしに十分だった。

「まあ、他にやることも特にないですし。じゃあ、体験入部くらいなら」

商談成立だ。巨漢の男は目尻に皺を寄せ、微笑んで手を差し出した。昭雄は無意識に彼の手を取り握手した。

「いや~、感心感心。嬉しいねえ。私の名前は秋山芳樹。商学部経営学科三年だ。専門は漫画とアニメ。よろしく」

「こちらこそ。文学部社会学科一年の篠田昭雄です」

挨拶を終えた秋山は微笑みながら、顔の三分の一を占める程の大きなツーブリッジの眼鏡をひょいと持ち上げた。

ここでさっきまで一連の取引を見守っていた俊彦がここぞとばかりに口を開いた。

「昭雄、君には早速部員を集めてもらいたい。部員を多く集められたら君はここの幹部の地位だぜ」

「やっぱりねずみ講じゃねえか!」

「冗談だって、冗談!がはは」

このくだらない会話の後に昭雄が目にしたのは残りの”異星人たち”であった。秋山は昭雄を彼らの元へ案内した。ここから先は彼らの母船の中だ。秋山はメンバーを一人ずつ丁重に紹介した。部屋は六畳程の広さで、置かれているインテリアは本当に宇宙船の設備さながらであったが、これらはインテリアなどではなかった。

「右奥であぐらかいてテレビに食いついてるのが工学部機械工学科二年の山岸透。専門はメディア機器、そしてアニメファンてとこかなあ」

「あの人は今何やってるんです?」

「あれは録画したビデオを見返してるんだよ。録画失敗してたらコレクションとしておじゃんだからね」

テレビの横にはこの宇宙船の中枢コンピューターのような機材の数々が積み重なっていた。

「はあ」

「あの人、いつもあんなんだから大仏って呼んでんだよ」

俊彦はそう言ったが、その口ぶりでは大分この集団に馴染んでいるようだった。案内の主導権は秋山に握られていたものの、俊彦はその助手役として上手く立ち回っていた。

「山岸の隣で椅子に座って本を読んでるのが文学部哲学科二年の三里塚三里塚は生粋のSF…いや文学青年で、昨年度、文芸同好会から転部してこっちに来た」

すると、それまで本を読んでいた三里塚がこちらに気づいて本を閉じ、立ち上がって近づいてきた。椅子の側のテーブルの上で閉じられた本の表紙には高千穂遥という言葉とクラッシャージョウという言葉が飾られていた。そしてその近くには小松左京の小説が置かれていた。長髪の細身でパンタロンを穿いた彼は一見、長身に見えたが、よく見るとそうでもなかった。

「俺は文学部哲学科二年の三里塚信康。まあ文芸同好会から追放されしこの俺はエデンの園へとやってきた純文学青年なわけだが、今後ともよろしく」

知的な学生運動家のような面持ちだが、言葉の節々に感じられる攻撃性と、絶望の深淵を模写したかのような垂れ目の瞳が悲壮感をひしひしとこちらに伝えてくる。

「ところで何を読んでいたんです?」

昭雄はさっきの本が気になっていた。

「ああ、あれは高千穂遥クラッシャージョウってSF小説だよ」

機動戦士ガンダムのキャラクターデザイン担当である安彦氏がイラストやってる小説だな」

遠くから山岸の甲高い声がした。昭雄にとっては意味がさっぱり分からない会話だった。

「今は訳わかんないかもしれんが、気にすんな。じきに慣れるさ」

そう言ったのはさっきまで右奥で何やら物騒な物をいじくりまわしていた迷彩服の、顔面の骨格のはっきりとした、やや体格の良い男だった。その男は秋山の紹介を待たずに自己紹介を始めた。

「俺は文学部心理学科二年の辛子由紀夫ってもんだ。専門はミリタリー関係。去年は一応自衛隊体験入隊していた。以上。よろしく!」

「けっ、出てきやがったぜ。新右翼気取り!ずっとチャカなんかいじりやがって、ジョンウェインにでも勝つつもりか?」

三里塚はまるで蕁麻疹ができたかのように反応した。

「これはAK-47だ。ガンマンの持つような銃ではない。貴様の大好きなソ連の1947製自動小銃だぞ。あと、俺がガンマンだったらジョンウェインなんかよりもイーストウッドに決闘を申し込んでるね」

「そうやって言いくるめようとしても無駄だぜ。そもそも実銃でもないくせに何の価値があるってんだ」

男のロマンだ!お・と・このロマン!このスカポンタンー!」

「まあまあ御両人とも、新入りの前でそんな見苦しい事するなよ。な!」

秋山は手慣れた感覚で二人を諫めた。どうやらこの二人、非常に仲が悪いらしい。

二人に平静が戻ると、昭雄は三里塚に向かって何気ない質問を送った。趣味が無いにしろSFに多少興味があるのは間違いでないからだ。

SF小説好きなんですか?」

「ある程度は嗜むよ。時流の作品もきちんと履修しなきゃだめだからね。まあでも、所詮SF小説だからね。やっぱ太宰みたいなのがいいのよ文学ってもんは」

と言って昭雄との会話を続ける意思もなく踵を返した三里塚の尻ポケットからはみ出ていた文庫本の表紙には”筒井康隆”の四文字がしっかりと刻まれていた。

高千穂遥は今ではラノベに相当する、当時としては革新的なメディアミックスの手法を取り入れたSF作家であり、当時より以前から名を馳せていた斬新かつシニカルな作風で知られているSF作家・筒井康隆もこの頃からその系統を汲み始めていた。小松左京は言わずもがな”日本沈没”に代表される本格的現代SF作家である。とどのつまり、どれもSFである。

右手前の方では何やら物々しい様子で電話している男がいた。何やら大雪がどうのといった感じの会話をしているようだ。

「今、お取込み中なのが、法学部法律学科三年の相川敏春(としはる)。専門は特撮、アニメ。あと正統派ではないが漫画も描ける貴重な人材だ」

昭雄に俊彦が「相川さんは通称・杜子春と呼ばれている」などと色々教えていたりしていると、相川は電話するのを終えて秋山に話しかけた。

「いや、失礼。ほら、うちの実家が山形だろ。今、大雪が凄いもんだからさ、心配で心配でね、ちょいと電話してたんだよ」

「家族のことが気にかかるのは充分に分かるんだけど、部室の電話は控えてくれよぉ」

「いやぁ、すまんすまん」

大雪とは一九八〇年十二月から一九八一年三月頃にかけて猛威をふるった五六豪雪のことである。相川の顔は聡明さに満ちあふれており、七三分けの髪型はそれを象徴していた。そして、この砕けたやりとりからして秋山と相川はどうやら旧知の仲であるらしい。

「最後に、左手前の机で一生懸命ペンを走らせているのが漫研の正統派、由実&絵里だ」

すると二人は同時に顔を上げ、昭雄の方に向かって微笑んだ。

「お、新入りクンかぁ。私は文学部国文学科三年の井原由美。ここで正統派の残党として活動しちゃってる通り、専門は漫画とイラストね。分からない事とかあったら遠慮なく相談してきてね」

彼女は恐らくブローしたであろう艶やかな長いストレートの黒髪が特徴的で、淡々とした物言いは如何にもな姉御的オーラを轟かせていた。続いて彼女の横から声がした。

「私は同じく正統派やってる教育学部教育学科一年の三宅絵里。専門は少女漫画の類でーす。今後ともよしなに~」

溌剌とした、聖子ちゃんカットの、少しぶりっ子キャラの入った女の子だったが、特徴的な八重歯が彼女に与えた可愛らしさはこの殺伐とした雰囲気の漂うサークルのオアシスでもあった。この一連のやりとりの後、彼女らはすぐさま目の前の仕事に没頭し始めたが、その仕事に対する二人の連携を見るに、この二人の間には師弟関係のようなものが成立しているようだった。

これで一連の部員紹介と挨拶は終了したかのように思われたが、昭雄はたまにしか顕現しない鋭利な才を発揮した。

 「ところで…俊彦。お前はこの部の一体なんなのさ」

昭雄は俊彦を白い目で見つめた。

「いやぁ、俺もSFやマンガ好きでさ~」

「ほう、二枚目のお前がか」

「カノジョには内緒にしといてくれよ」

事実、俊彦は常時ふざけた男だが、妙に気障な男でもあった。そういった人となりだからか高校以来、女性関係に飢えていない男であった。ここで三里塚は昭雄に対して先程切り捨てた会話を再開するが如く質問を送った。

「お前、そういや学部はどこなんだ」

「文学部社会学科ですけど」

「専攻は?」

「現代国際社会学です…」

「じゃあ、おめえ赤満先生のお膝元じゃねえか」

「そうですね」

「よく聞いとけよ!赤満先生の重大な国際展望だ。そうかそうかお前も同志だったんだな」

心外な事を言われ、昭雄はいつもの口癖を放った。

「いやぁ、ソ連はあと十年で崩壊しますよ」

「なに言ってんだおめえ。あと十年でソ連が崩壊するわけがなかろうに」

「だから、ソ連はあと十年で崩壊するんですよ!」

非常に口下手な男・昭雄である。

………

先に口を開いたのは辛子だった。

「おい。オメエ、そういう奴だったのか」

「い、いや。違、違うんで…」

「じゃあお前を今日から一水会にちなんで一水と呼ぶことにする」

「いいね。じゃあ俺もそう呼んじゃお」

一水会とは、一九七〇年の三島由紀夫割腹事件の後に発足した、三島の組織した民兵組織”盾の会”の後継団体の事である。新左翼と同様に旧来の主流派思想から一線を画した、反共・民族主義・対米自立を標榜する新右翼として当時話題となった。

昭雄の口癖は誤解一〇〇%の代物であったため、こういう展開になってしまうのも無理はない。そして、いつもいがみあってばかりいる辛子と三里塚はこういうところで変な馴れ合いを見せる。それは初対面の昭雄だけでなく、慣れ親しんでいるはずのメンバーたちでさえをも当惑させていた。とりあえず、この”一水”というあだ名を払拭することが、当面の昭雄の仕事となってしまった。

ここで先から滅多に口を開かなかった山岸が昭雄に話しかけた。

「とりあえず。これで、予習」

たったそれだけ言って一本のビデオを渡した。ビデオ背面のラベルには”伝説巨神イデオン”とあった。これを見るや相川はやけに深刻そうな顔をして言った。

「おい、これを初心者にはどうかと思うぞ。何しろ怪作だからな」

「いや、これで事足りる。とにかく予習。新入り、ビデオデッキあるか?」

「はあ、ありますけど」

「じゃあ、役者は揃った。どっぷり浸かってこい」

続く

エンディングテーマ 「復活のイデオン」(伝説巨神イデオンより)

 Fukkatsu no Ideon - Isao Taira Lyrics

*1:当時流行の女性ファッション誌

メガネ奇譚

皆様こんにちは、面堂です。

本日はいつもの作品紹介と打って変わって箸休め(箸休めにしてはボリュームがでかすぎる)程度に二次創作小説を書き留めておきます。

さて、もったいぶらずに何の同人を書くんだい?

言ってごらんよ、旦那!

では恐縮ながら…

何を隠そう、そう、あの、うる星やつらメガネ主人公にした大々スペクタクル冒険活劇(これは嘘)であり(これも嘘)の全米号泣必至(もうこれで全てお察し)同人小説なのだ!

以下、小説本文へ移行するが、そこにおける思想信条一切はメガネのものであり、わたくし面堂とは一切関係ないということを留意されたし。

 

「メガネ奇譚」 メガネ 著

f:id:keitaroumendou:20200408081459p:plain

 

 上の写真は紛れもない私である。では、私は誰か?メガネである。では、私は何者だ?友引高校の一介の高校生であり下駄履きの生活者、並びに立ち食い師の道を進まんとする者である。私は何を所望しているのだ?

何もない…

いや、ラムさんへの愛だ。勝ち取るべき愛だ。ブルジョアに搾取されてはならない愛だ。

しかし、これから紹介する一切の事は虚構の現実。いささか矛盾めいてるが、この国の民衆皆がその虚構の中にあって、かつそこに自身を投影している普遍的な生活を意味する何かである。

1984年○○月☓☓日 朝食 青菜、焼き魚。

白米、味噌汁なんてのは真理なのである。だから正規の記載はこれだけでよい。

今は暑いから多分夏だろう。玄関を出るとそこにあるのはただの軒先の猫とこれからの運命を決定付けるであろう陽炎、そして嗚呼我が麗しの青春生活通学路!

私は電車通学経てからの徒歩通学であるので、満員電車内の闘争という何の意義も満たさない闘争に青春の1ページを費やさなければならなかった。しかし、収容所の監視状態から抜け出た後の悲壮感、それらが相まって日々強情さを鍛えさせてくれる。それが満員電車というものだ。

登校時には必ず我が同志パーマ、チビ、カクガリと遭遇する。遭遇方法はこうだ。まず我が家の軒先でパーマと遭遇。相変わらず資本主義的文明にその身を置き、快楽を謳歌している不届き者だが、ラムを愛する気持ちは十二分であり、また私の良き理解者である。そして二人は満員電車へ特攻。名誉の戦死を遂げた後、通学路にてチビ、カクガリに何の脈絡もないまま遭遇。特に”暗闇のわれに家系を問ふなかれ漬物樽の中の亡霊”と言わんとするが如く悲惨な生活を強いられた継子のような形相をしたチビが私に必死のパッチで抗議してくる。彼は毎晩毎晩ラムに対する成し遂げられない愛情に憤りを隠せず、恐らく不眠症の類であろう、どこの誰に向けられているかすらも分からない嘆願混じりの恨み節を演奏してみせるのだ。私はそれを一蹴する以前に、「このスカポンタン!」と拳骨を脳天へ一発。これで万事解決である。こうすれば彼は寺山修司の出来損ないから元のチビ助に戻るのである。カクガリはいつも登校時には♨先生と見間違えてしまうので、これまた一苦労である。正直、言ってチビ、カクガリはモb…

ー検閲により該当部分削除ー

あーっ、もういい分かった!大切な同志は革命を動かす原動力!万国の労働者は団結せなばいかんのだ!それに、彼らを蔑ろにしては私のラム親衛隊最高幹部会議長のポストも危うい。

以下、日常の如し。よって、割愛。

私は一日の労働の疲れを同志とのばかばかしい世間話で昇華させながら帰宅の途についた。私はパーマと別れた後、数分歩いた時に私の丁度三尺先の電信柱にもたれかかる一人の英国紳士風の、黒マントでこうもりの如く肌身を覆い隠し、ステッキを持ってハットをかぶり、無精髭を生やした原田芳雄風の、どこか不吉な笑みを浮かべている食えない男がこっちをじぃーっと見ているのに気づいた。

彼との距離が近くなるにつれ私は憔悴しきって、その黒マントの男を一瞥するやいなや対抗心が即座に芽生えてきたのであろう。彼とのかけっこは刹那の内に開始された。すぐ近くの街角にある立ち食い蕎麦屋に駆け込むと二人は暗黙のじゃんけんで注文する前後を決定し、開口一番月見そば。初手は黒マントだった。「くぅ〜」と私め一言申し上げますと、もはや後の祭りで只々「天ぷらそば!」と否応なしに一言。いや、この勝負俺がもらったぁぁぁ!黒マントの眉毛がぴくりともしないうちに私は「オヤジぃ、紅生姜の天ぷらいっちょ!」と放った。そう、この立ち食いそば屋は関東圏ではもはやエスニック料理の扱いを受けつつある関西料理としてのそば屋であったのだ。ここの親っさんはそば道一筋このかた半世紀の大ベテラン!おまけに関西そば流儀を極めし者であるが故に彼の御法度に反した場合は容赦なくその鉄槌が下される!私はその事を知っていて敢えて駆け込んでいったのだ。紅生姜の天ぷらは無論、関東圏には無縁の代物。黒マントの動きやいかに。黒マントは立ち上がった。そしてこれまでになかったオオグチボヤのような形相をなしてひと欠伸。おまけにあのヒトラーユーゲントも真っ青のハニカミ笑顔に見事なナチス式敬礼をしながら、「紅生姜天ぷらひとぉつ!」と鬼畜の剣幕で放った。親父もそれに呼応するように「あいよぉ!」と放ったが、私は頬杖をつきながら余裕ある態度でこの駆け引きを見守るのだ。紅生姜天ぷらは間もなくして出来あがり、1秒たりとも誤差はなく同時に手元へと到着した。しかぁし、何という迂闊私は到着した出来たてほやほやの紅生姜天ぷらを既にお仲間が入居しているそばの中へチャポリ。天ぷらそばに別個で頼んだ天ぷらをチャポリしたことが問題なのではなく、紅生姜天ぷら単体を味わわないことが死活問題であったと認知する前に、私の視界は逆鱗に触れられた親っさんの拳骨に埋め尽くされ、逃亡を試みようと横を向いた瞬間、頬骨にきついジャブを一発お見舞いされた。この一連の動作に”デュクシ”なんて稚拙な効果音は似合うはずもなく、寧ろ私の”ヒデブッ”(いや違った)絶叫で十分だった。御法度破りの返答としての刑を執行した親っさんは私が正気を戻した時には既に定位置にて自分の人生を歩んでいた。正気に戻った私は黒マントの方を真っ先に見た。黒マントは黙々と紅生姜天ぷらをかじっていた。この勝負、彼の勝ちだ。私は悔し紛れに勘定を済ましてさっさと出ていこうと思った。すると黒マントは私が正気に戻ったのに気がついたようですっくと立つと勘定をさっと済ませ、気づけば私のすぐ目前に立っていた。次の瞬間、彼はそれまでこうもりのように身に纏っていたマントを翻して内なる秘密の全容をさらけ出した。なんと彼はマントの下に何も纏ってなかったのだ。つまり素っ裸なのであって、彼はただの露出狂でしかなかったのだ。

………

なんちゅう、災難じゃあっ!わざわざ私に見せつけるために蕎麦屋まで入っていったのか!第一、男に向かってすることではなかろうに!”メロス、君は真っ裸じゃないか”なんて美談を語るに値しない所業ではないか!

「さだめじゃ」

あぁーっ、だまらっしゃい!ヒョウタンツギの如く現れるこやつは全く…

ギッチョンチョン!

第一話 完

至高の悲劇 ~伝説巨神イデオン劇場版 THE IDEON 発動編(1982)~

こんにちは、面堂敬太郎でございます。

早速ですが昨日劇場版イデオンを鑑賞しました。はっきり言って、憔悴しました。そして一夜明けてブログを書いている今(執筆開始日は28日) も、微弱ながらその憔悴からくる半狂にも似た倦怠感が体の至る所に留まっている気がしてならないということ。そのため今回は紹介ではなく、イデオン視聴済みの方を対象とした感想及び考察文になってしまうということ。それに付随してネタバレは無論のことであるということ。また、工作的な自由さが取り柄であるブログが今回は単純な活字ばかりのお通夜のような仕様になっていること。今回はそれらを踏まえた上で読んでもらえると幸いです。

 

f:id:keitaroumendou:20200328204732j:plain

富野由悠季 監督作品 「伝説巨神イデオン劇場版 THE IDEON 発動編」(1982)

 

まず、この映画を鑑賞して身に沁みた強烈な感覚が今もまだ鮮明に感じられた。それは僕や読者の方々も子供時代に抱いたであろうあの畏怖である。あの畏怖というのは子供時代、ホラー映画やサメ映画を見た後、得体の知れない恐怖に襲われ、その無垢な心はフィクションをあたかも現実であるかのように考え、ただただ恐怖の奈落に堕するままに一夜を過ごしたあれである。

そして僕は小学生以来記憶の彼方に置いてきたその畏怖を齢二十を前にして更新した。しかしながらこの畏怖は子供の頃とは違い、一時的な事象に過ぎないのだ。思春期を過ぎた人間というのはまるでアルミのように熱を加えてもすぐに冷めやすいのだ。そして感性に乏しい現代人であるという要素も冷却の原因になりうるのだ。僕はこの事を潜在的に感じるや否やすぐブログにしたためようと思ったが、夜も遅いのであくる日にしたためることにした。そして今日、嫌な予感は僕の予想より早く体現された。映画から受け取った感覚の断片が徐々に剥がれ落ちていくのを実感したのである。なのでこの貴重な畏怖の体験を文面だけでも残存せしめるべく早急にしたためよう。そして読者の方々もイデオンの劇場版までの作品を視聴した直後に本ブログを読んでみるとこの体験を共有できるように思う。

TV版の視聴終了後、劇場版の視聴を後回しにしていた僕は昨日やっと視聴する機会を見つけた。amazonのprime videoを開く。それはほんの軽い気持ちとやり残した仕事を遂行しようとする義務感であった。視聴ボタンをタップする。映像が始まる。どこか見覚えのある映像が流れた。遠い記憶の中から情報を手繰り寄せる。そうだ、画面に映るこの二人はコスモとキッチンだ。TV版の記憶が昨日のように甦る。そしてそのシーンはキッチンの死の場面であった。しかし、このシーンで平然としていた僕の心情は一変する。キッチンはTV版と違い、爆発に巻き込まれて死ぬのだが、それを見て唖然とするコスモのヘルメットに反射して映るのは遠くで血しぶきの放物線を描きながら空中を飛ぶキッチンの首なのである。僕はこれが紛れもない富野作品であることを忘れ、油断していたのだ。間髪をいれず、すぎやまこういちの劇伴の流れるオープニングが始まる。眼が熱くなった。普段は序盤の段階でそうならないのだが、今回のこの作品は何かがおかしかった。このすぎやまこういちの劇伴は本来のドラクエのメインテーマのようなワーグナー的勇壮と絢爛に彩られた曲ではなく、彼の音楽にはこれまでにないようなモルダウ的悲哀を引き出す曲であった。かくして荘厳な序幕は始まった。

僕はすっかり底無し沼に浸かったかのような感覚で視聴を進めた。この感覚はエヴァンゲリオンの旧劇場版を見た時と同じ感覚である。そして物語はTV版最終回の部分に差し掛かり、打ち切られたTV版の補完部分を展開した。ソロ・シップとバッフ・クランの死闘は一見いたちごっこのように見えたが、戦闘の規模を格段に増長せしめた。遂にバッフ・クランは白兵戦を遂行。ここで恋人ギジェを失い堕落と狂乱の底へ身を投じたシェリルはその生の幕を引いた。そして純粋無垢な赤ん坊がイデの力を増幅させる契機になるということをソロ・シップのメンバーは認識し、ベスとカララの間にできた子はメシアと名付けられ、祝福される。

そして、物語は波乱と破滅の終幕へと向かう。バッフ・クラン側では最終兵器を準備し、ソロ・シップとの決戦に臨んでいた。そして、カララの姉であるハルルは二人の部下を伴ってソロ・シップに侵入、ここでロッタとカララは射殺される。しかし、カララのお腹の中にいるメシアはまだ生きているのだ。一方バッフ・クランではハルルによる父ドバ総司令への告解がなされていた。女としての幸せを手に入れた妹に対してそうでない自分への劣等感から引き起こされた殺人はサムライとしての本分を重んじる父の逆鱗に触れた。その後、両軍の攻防の中でハルルは死んだ。この時点で僕の眼は得体の知れない何かに覆われていた。人間模様。それも善悪のはっきり付け難い事物からなされる人間模様だ。僕はこの時、この作品が単なるロボットアニメではなく、一大悲劇のスペースオペラであることに気付いた。物語は遂に絶望の終戦へと向かっていく。バッフ・クランの白兵戦の猛威はソロ・シップのメインブリッジにまで迫っていた。ここでメインキャラクターたちは女・子供かまわず戦闘の中で無残に死んでいく。僕にとってカーシャの死は特に胸に応えた。そして軍人として最期までその職務を遂行したべスには心打たれた。まさに絶望なのである。このメインブリッジの死闘は妙に現実味があって序盤に述べた畏怖を特に感じさせる場面であった。そしてバッフ・クランの最終兵器ガンドロワによる攻撃がなされるとその直後にイデは発動され、両人類(それぞれの母星は流星によってすでに破壊された)は全滅したのである。

その後も物語は続くのだが、一旦ここで区切らせていただく。

ここまでを見て、富野作品の凄まじさを改めて知らされた気がする。ガンダムにおける黒富野とは比にならないほどの黒さである。あの最後のメインブリッジにおける死闘の妙な現実味は富野監督世代の感覚でしか引き出せないのだろうと思った。戦時中の生まれであり、我々には分からないが、空襲や戦後の混沌とした風景を見てきたであろう世代だからこそ生み出せるリアルな感覚である。それがアニメという映像表現を通して我々に畏怖という名の戦時中の感覚を仮想体験させてくれたのかもしれない。僕はあの時、まさに絶望の淵に立たされた感覚を味わったのである。

そして、物語は哲学的かつ神話的な境地に突入する。ここがこの物語の本質であり、全滅以前に双方の人類が迫りつつあったイデの核心が明らかになるところである。全滅した人類は宇宙に精神的具現として現れた。霊魂のようなものである。そこでは主人公コスモ含め、登場人物みな幸福の権化のような雰囲気で登場するのである。そして人々は愛する人と共にカララの子メシアの先導によって因果地平へと旅立つ。そして物語は終了する。この場面でもすぎやまこういちの讃美歌のようなこれまたある意味彼らしくない劇伴が凄く効果的に作用している。

結局のところイデは人類の信奉する神の具現化した姿で、人間の業を解決する最終手段として人類の全滅を選んだわけだ。キリスト教におけるヨハネの黙示録にあるハルマゲドンの一部始終と構図は部分的に似ているが、内容的には仏教の輪廻転生が主題に近いのであろう。人類は因果地平へ行き、転生して一からやり直すのだろう。

また、最後のシーンでは一つ感慨深いシーンがあった。因果地平へ人々が向かうシーンで実写の色彩加工のなされた打ち上げる波濤の映像がいくつか登場しているのである。これはキューブリックの「2001年宇宙の旅」のラストスパートに出てくる数シーンと非常に似ているのである。その映画はざっくり言えばいち宇宙飛行士が宇宙で遭難し人類を超越した存在となって太陽系に戻ってくるといういわば人類証明のような物語で、この映画におけるキューブリック流人類証明をもしかしたら富野監督は輪廻転生の方式で富野流人類証明として作り直したのではなかろうかと推量してしまうほどのインパクトであった。

ただ、僕にとってこのイデオン劇場版は人類の歴史を股に掛けた一大悲劇なのである。映画全編にわたって散りばめられたグロテスク表現は現代人に畏怖の念を抱かせ、人類の愚かさを骨の髄にまで沁みこませたのである。そしてこの後世に受け継がれるべき大作を作り上げた富野由悠季もとい富野喜幸という人間にこの小童はただ感服するばかりなのである。

 

第1話 復活のイデオン

第1話 復活のイデオン

  • 発売日: 2013/11/26
  • メディア: Prime Video
 

 

 

伝説巨神イデオン 発動篇

伝説巨神イデオン 発動篇

  • 発売日: 2017/09/01
  • メディア: Prime Video
 

 

 

 

押井ワールドのすゝめ! ~トーキング・ヘッド(1992)~

こんにちは、面堂敬太郎でございます。

初回の自己紹介に引き続き、早速作品を紹介したいと思います!

 

栄えある第一回紹介作品は・・・

押井守 監督作品 「トーキング・ヘッド」(1992)

でございます。

 

実のところ、うる星ファンの僕としては同監督作品の「ビューティフルドリーマー」を紹介したかったのですが、ところがどっこい、今朝、この作品を視聴しちゃいまして、今や僕のおつむは押井守による洗脳から脱することもままならない状況なのであります。

では、本題に移るとして、

まず、押井守という奇才について、あなたはご存知だろうか。

オタクであれ、誰であれ、一度は耳にしたことがあるだろう「攻殻機動隊」の監督であり、その他「うる星やつら」(主に演出)、「機動警察パトレイバー」など幾多の作品を代表作とし、その不世出な才能と卓越した演出力は幾ばくの月日を経た現代においても我々観衆の眼を虜にしている。

今回、紹介する作品には熱烈な押井ファンでないかぎり相当な根気を要すると思われるので、ブログを読む際は注意されたい。また、僕自身もそうであったが、正直言ってこの作品は押井ワールド、そしてそこに付随し、世界観形成の一翼を担う諸知識の理解を要するため、押井ワールドに馴れていない方には非常に難解である。

ということで馴れていない方には理解を促すための潤滑油として「パトレイバー」や「攻殻機動隊」等比較的マイルドで世間的にも名作と謳われている作品を予め鑑賞することを勧めたい。

そして今回の紹介作品はこの押井ワールドと関連づけて、紹介していきたい。

 

 問ひて曰く、押井ワールドとは何ぞや?

答へて曰く、危険なカルピスの原液なり

 

彼の世界観を端的に言い表すと、こうなる。

よく彼に関する論評で”アレンジやオマージュの天才”とあるのを(うろ覚えだが)目にしたことがあるが、確かにこれは僕としても十分理解できることであるし、押井ファンにとっても共通理解であるように思う。しかし、押井ワールドは上で示した通り、カルピスの原液なのである。

”おいおい…”と押井ファン歴このかた三十年の諸先輩方からツッコミが来そうだが、順を追って説明しよう。

実は押井ワールドを形成している諸事物の中には”パロディ”も少なくないのだ。ここがツッコミどころの一つである。しかしながら、上記の”アレンジやオマージュの天才”はまた違う話である。というのは「攻殻機動隊」も「パトレイバー」も「うる星やつら」も全て原作原案は押井自身と異なる人物なのである。つまり、押井はそれら原作を自分流に調理し、ヒットさせていることになる。そこが”アレンジやオマージュの天才”と表現されうる所以なのだろう。

とどのつまり、押井守というカルピスの原液は他者の原作原案によって見事に中和され、少しコクの残るさっぱりしたあの甘いカルピスへと変貌するのだ。

 

では、原液に含まれる”パロディ”とは何であろう。これは我々オタクにも似たようなものが存在する。愛と尊敬の念を込めて著作物に捧げられる行為ー二次創作ーである。彼の映画には鈴木清順寺山修司のような邦画を代表する映画人の特徴的技法がいくつか散見される。

鈴木清順は清順美学と呼ばれる幽遠的かつ耽美的な作風で知られる監督であり、押井作品の中ではその大胆なパロディがよく見られる。また、寺山修司は日本サブカルチャーの確立者と言っても過言ではなく、その退廃的、土着的な世界観が際立つ日本屈指の文芸家である。押井は彼らをはじめ、影響を受けた幾多あまたの芸術人の世界観を共有し、自分の世界の中に取り込み、確固たるものとして押井流哲学で締めくくっている。

 

彼のいわゆる原液は少なくともこのような物質であると思える。そしてこの原液を味わうにはあまりに濃く、使い方を間違えてしまえば、危険になってしまう。

その危険な状態というのがこの映画だ。

f:id:keitaroumendou:20200312011427j:plain

「トーキングヘッド」

上のポスターからしてアニメ作品と思う方がいるだろうが、これは紛れもない実写作品。アニメはあるものの劇中アニメという扱い。

しかし、そのアニメが凄い!

キャラデザ 美樹本晴彦 メカデザ 河森正治

マクロスペア、そして原画には金田伊功も参加しており、ここだけでも見応えのある作品だ。

さて、実写パートだが、主演は押井映画お馴染みの千葉繁

ちなみに助演ではマダオ碇ゲンドウの声の主として名高い若かりし頃の立木文彦も劇中で大いに活躍している。

千葉繁扮する映画監督が、監督失踪により映画製作の進行の難航した制作スタジオに代理の新監督として任に就く。しかし、当日から制作メンバーの不審死が相次ぎ…という血生臭い内容となっており、内容からしメタフィクション的要素を大々的に感じさせる。また、雰囲気は一貫して重いものの、やや喜劇のような空気感がずっと漂っているのである。押井作品経験者なら、この感覚に共感できる方も少なくないだろう。まるで映画を一つの構図として捉えている。

一つの構図…これを一つのヒントとして受け取ってこの映画を観るのもありだろう。実際、この映画の押井の演出力には驚かされる。先述した鈴木清順寺山修司の作品を知っている方ならこの映画を見てニヤリとくるだろう。

映画が一直線上のある一定の時間軸としてのベクトルしかないとしたら、押井映画は平面上にもう一つ軸が追加され…いや、もはや立体なのかもしれない。

はっきり言って純粋に単軸的な映画を楽しむ観客にとってみれば、この映画は危険な劇薬なのだろう。

もし、この映画で押井ワールドの洗礼を受ける方がいれば、とにかく真正面から根気を持ってぶつかることを勧める。そうでもしなければ、この映画はただ流れる不鮮明な映像にしか見えないだろう。

 

トーキング・ヘッド

トーキング・ヘッド

  • 発売日: 2016/09/02
  • メディア: Prime Video
 

 

 

トーキング・ヘッド [DVD]

トーキング・ヘッド [DVD]

  • 発売日: 2010/04/23
  • メディア: DVD
 

 

ブログ開設! 〜下駄履きの生活者として〜

春、早春である。

人は出会い、やがて別れる。

桜の蕾に思いを託し、あの娘は何処に…



なんてポエミーなのはご法度だ!

朝、起きるといつもの四畳半、いつもの本棚、いつものポスター、なんら変わりのない自分、現実がそこにあった。

重い瞼を商店のシャッターのように上げると、後はぱちくりぱちくり、視界は一気にキネマトグラフィーの世界へ移る。

モノクロの景色は脳内がまともになるのを確認した後、段々と色彩を取り戻してくる。


さて、平静さを取り戻したところで、こんな訳の分からん三文小説の出だしのような序文から振り回された読者の方々に詫びを入れつつ、自己紹介をいたします。


私の名前は面堂敬太郎。

下駄履きの生活者であり、オタクの道を往く者である。

趣味はアニメ鑑賞、映画鑑賞、ゲーム。

以上。


(おい、何か他に言うことは?)


しがない身でございますので、これ以上は堪忍してくだせえ…


まぁ、ディテールに関しては追い追い明らかになると思います。


基本的にこのブログでは、アニメや映画等の考察、評論、感想、その他こなたのエトセトラ。ま、色々と書いていきたいと思います。

二次創作も軽いものであれば、ここに書けたらなと。


では、これにて始まり始まり〜